①知っているようで知らない土合

 土合は十一ケ村を合せて土合村としたのではなく、十二ケ村(山久保・栄和・中島・西堀・南元宿・町谷・道場・新開・田島・関・鹿手袋・四谷)あって十一ケ村を土とし、四谷村を土に半点を打ってすなわち𡈽合村とした。

 

これが正しい𡈽合村とされたという。現在はいつのまにか半点がなくなってしまった。...四谷村はその後大字田島字四谷となり、関・鹿手袋とともに南区に編入されました。

 

栄和村は西蓮寺村と千駄村が合併した村です。文字など変わった所は、本宿⇒南元宿・町屋⇒町谷・鹿手袋 しってぶくろ⇒しかてぶくろ。【資料:土合郷土史ほか】

 江戸から明治~平成まで時代が下がり、耕地整理、区画整理、そして宅地造成で便利になった道路を自転車等でゆっくり走ると、下水道や曲りくねった道、三叉路に出逢うことがあります。それらは殆ど古道の面影です。下水は村の時代の田圃へ導く水路の面影、三叉路や五叉路に出逢うと往時の人達が歩いた道です。

 

傍らには庚申塔、地蔵仏等、石碑を見かけることがあります。村境、家境に疫病が入らないよう、神仏の姿で村や家の安全を願っています。また道標として行先が書かれた石碑もあります。散歩のおりや自転車ではゆっくり走り、今いる場所を違う目線で見回してみてください。そこにはいにしえの世界が広がるはずです。次回、追分に佇む石碑をお話しましょう。