⑬鴻沼と鴻沼川のおはなし

高沼地区(西堀の東側)を流れる鴻沼川は、江戸時代中期までは浦和・大宮支台と与野支台に挟まれた南北に細く伸びた鴻沼という「ため池」でした。今の中央区下落合から南区鹿手袋まで幅100m~500m、長さ4㎞位の大きさがありました。この鴻沼に流入する川は切敷川(霧敷川)と呼ばれていました。

 

徳川吉宗の時代の享保年間(1720年頃)に幕府の財政を立て直すために井沢弥宗兵衛為永によって、新田開発が進められ、広大な見沼の干拓に続き、鴻沼干拓が行われました。鴻沼の水を抜くために中央が掘削されて排水路となり、下落合の上流は以前と同様に切敷川と呼ばれ、排水路は鴻沼川(鴻沼排水路)となりました。同時に見沼の代用水西縁から水を引き、切敷川は下落合で西縁と東縁に分かれた導水路につなげられました。新田を潤した水は鴻沼排水路に落ち、鴨川、荒川へと流れるようになりました。

この川は荒川につながるため、台風などで荒川の水位が上がると逆水現象で高沼地区から対岸の大戸のあたりまでが昔に戻ったかのように「鴻沼:ため池」状態となってしまう危険があります。この水害の防止のために荒川へ排水する鴻沼排水機場が設置されていますが、さらに鴻沼川沿川ポンプの設置や同様に危険性のある油面川でも鴨川へ落とすためのポンプ場設置の対策が進められています。   (いはら)