畠山重忠公のおはなし

2022年1月からスタートしたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。ハラハラドキドキが好評で放映されていますが、時代は平安末から鎌倉前期を舞台に「吾妻鏡」をベースとしたドラマです。タイトルの「13人」とは、源頼朝の死後に発足した集団指導体制である13人の合議制(吾妻鏡巻第十六)の御家人を指します。(Wikipediaより

 源頼朝の臣従で武蔵武士団の首領であった畠山重忠がいました。重忠は武蔵国男衾郡畠山荘(現・埼玉県深谷市畠山(旧川本町))に生まれ、頼朝の武家政権樹立に尽力し、智・仁・勇を兼ね備えた「鎌倉武士の鑑」と称されていましたが、頼朝死後の元久2年(1205)6月22日、北条時政の謀略により武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)で最期を遂げました。

ドラマでは中川大志が演じています。義時と同年代の武蔵の若武者。謹厳実直な人柄で義時とは互いの力量を認め合う仲。知勇兼備で武士の鑑といわれる。畠山家は平家とのつながりが深く、頼朝の挙兵で大いに悩む。

NHK(https://www.nhk.or.jp/kamakura13/cast/all.html)より

 

 生誕の地、深谷市のHPに畠山重忠に関する情報を集めた「畠山重忠辞典・

深谷市教育委員会編」を公開しています。内容は「重忠ゆかりの地」として神社、寺院、城館、川、伝承、木、墓、都市、道、温泉、子孫伝承、随行、戦場、峠、踊り、橋、領地、山、と様々な分野で調査され、207に及ぶものが載せられています。

重忠公の生誕地である埼玉には多くの伝承が遺されていますが、埼玉以外では、福島、東京、千葉、静岡、兵庫、京都、石川、神奈川、、岩手、新潟、宮城、富山、群馬、山梨、奈良、鹿児島、岐阜、宮城、宮崎、大分、秋田、三重、長野、熊本、北海道、長崎、香川、栃木、・・・なんと重忠の伝承は、北は北海道から南は鹿児島まで29都道府県に及びます。

 

当土合にも周知のように多くの重忠公の伝承伝説があります。同辞典から「土合あれこれ、重忠公の足跡」としてさいたま周辺を抜粋してみます。

土合に遺る重忠公

円乗院 さいたま・与野 与野の円乗院は重忠の開基と伝えられ、浦和の道場から移ったものとの説も有り、銅鐘にその由来が書かれている。

金剛寺 さいたま・道場 金剛寺は重忠の草創による。また、その正観音は重忠の念持仏。足立郡道場村。

重忠城址 さいたま・道場 浦和の道場には、重忠の居館と伝えられる場所があり、近くには館にちなむ堀の内、宿や町屋などの地名が残る。ただし、現在痕跡は残っ ていない。また、重忠が土中から拾い上げた観音像を祀る道場を開いたことが地名の由来という。

如意輪寺観音堂 さいたま・鹿手袋 如意輪寺観音堂の本尊は、重忠尊信の霊仏。足立郡鹿手袋村。

畠山重忠墓 さいたま・神田 永福寺の境内に五輪塔があり、畠山重忠の墓と伝わる。五輪塔の地・空輪に宝篋印塔の笠がかけられている。ゆかりの地がさいたま市周辺に残るのは重忠がこの地を領地としていたことによるのかもしれない。 深谷市から荒川を使えば遠い距離でもなく、船を使って鎌倉までの中継場所かもしれない。ただし、重忠がこの地を治めていたことを示す記録は残っていない。

真鳥日向守城址 さいたま・西堀 西堀の高台に残る重忠の家臣眞鳥日向守の居城がある。

さいたま市に遺る重忠ゆかりの品 

円乗院 梵鐘 畠山重忠が道場村に築いた寺院をここに移した経緯が銘として記される。

如意輪寺観音堂 如意輪観音 畠山重忠の守護仏と伝えられる。

 

畠山重忠にまつわる戦い

治承四年(1180)8月に源頼朝が平家追討の兵を挙げた時には弱冠17歳。

三浦氏との戦い: 源頼朝が伊豆に挙兵した際に、重忠は平家側の総大将大庭景親に味方して鎌倉まで出兵したが、頼朝がすでに23日の石橋山の合戦に敗れた後であった。一方、頼朝側に呼応した相模の三浦義明の軍は洪水にはばまれて重忠と同じ様に合戦に遅れ、引揚げる途中の24日、由比浦で両者が遭遇した。その際に些細な手違いから戦いとなり、重忠は郎党50人余りを失って退いた。ついで26日、重忠は秩父一族等の援軍を得て三浦氏の衣笠城を攻め、これに敗れた三浦義澄 (義明の子)らは海路安房に逃れたが、ひとり留まった義明(重忠の祖父)は27日、討死した。

重忠と頼朝の出会い  治承四年(1180)8月、石橋山の戦いで敗れた頼朝が、10月再び勢いを盛りかえして房総か ら武蔵に進攻して来ると、重忠はこれにつくべきかどうか迷ったようである。 もちろん、まだ父重能や叔父有重らは京都にあって平家に仕えている。8月、頼朝方の三浦氏を衣 笠城に攻めて破ったことも、大いに気になる。しかし再起した頼朝の勢力は大きい。 源平盛衰記は、その時決断しかねていた重忠の様子を次のように述べている。『畠山庄司次郎は、半沢六郎(榛沢六郎成清)を呼びて云いけるは「此の世の中いかが有るべき、 つら兵衛佐殿(頼朝)の繁昌し給うを見るにただごとにあらず。八か国の大小名皆帰伏の上は、参るべきにこそあるか。さしたる意趣はなけれども父の庄司(重能)、おじの別当(小山田有重)平家に当 参の間、なまじいに小坪坂にて三浦と合戦す。されば参らんも恐あり、参らでもいかが有るべき、相計え」と云いければ、成清申しけるは「ただ、ひらに御参り候え。小坪のいくさは三浦の殿原存知あるらん。弓矢取る身は父子両方に別れ、兄弟左右にあって合戦すること世の常なり。保元の先蹤(せ んしょう)近き例なり。旦は又、平家は当時一旦の恩、佐殿(すけどの=頼朝)は相伝四代の君なり。御参り候わんにその恐あるべからず。若し御遅参あらば、一定(いちじょう)討手を差遣わされ候べし、その条ゆゆしき御大事なり。急ぎ御参りあって、何事も陳じ申さるべし」と云いければ、五百余騎を相具して、白旗白弓袋を指し上げて参りたり』。

態度を決めかねていた重忠も、こうして榛沢成清の意見をいれ、重忠と同じ様に逡巡していた河越重頼・江戸重長らとともに、長井の渡しで頼朝に帰伏した。

当初平家方につき、のち頼朝方についた最初のしかも最も有力な武将であった。 一方、頼朝側にあっても、畠山氏の動向は極めて重大事と見ていたようで、隅田川を渡る前に頼朝が「一両日逗留して上野・下野(群馬・栃木)の武士を待とう」としたのに対し、千葉上総介広常がいうのには「平維盛が大将軍として下向している。しかも武蔵のことをよく承知している斎藤実盛が東国の案内者となって陣を立てている。日数が経てば武蔵・相模の兵は大場・畠山の下知に従って平 家方につき、大変なことになりますよ」という意味である。

そこで頼朝は休まず一気に武蔵に進攻したのであった。

重忠は帰伏した際に、案の定、三浦氏を討ったこと、源氏白旗をかかげてきたこと等をきびしく頼 朝にとがめられた。 

これに対し重忠は「三浦氏を討ったのは些細ないきちがいによることで、いきさつは三浦氏にお尋ね下さい。この白旗は御先祖八幡殿(源義家)から私の四代前の祖武綱が賜り、武衡・家衡を討った 際の由緒ある旗で、吉例と名付けて代々相伝してきたものです」と釈明して許された。 

しかもその上「頼朝日本国を鎮めんほどは、汝先陣を勤むべし。但し汝が旗のあまりにも取りかえ もなく似たるに、是を押せ」といって藍皮一文を賜った。以後、重忠の白旗には、頼朝の旗と区別するために小紋の藍皮をつけたという。 

頼朝が、帰順したばかりの十七歳の若武者に武将として最高の名誉である鎌倉入りの先陣を命じた ことは、このことによってその帰趨が心配になっていた武蔵武士団を完全に掌握しようとするための 措置であったと解される。

木曽義仲との戦い: 治承四年8月の段階では源氏に敵対した重忠であったが、頼朝が房総に再起して10月に武蔵まで進んだ際に、河越・江戸氏らと共にこれに帰順した。

そして、元暦元年(1184)正月には、源義経の軍に属して木曽義仲と宇治川で戦った。

平氏追討 ~一の谷~: 元暦元年正月20日の合戦で木曽義仲を討った源氏は、2月5日、平氏を追って播磨 国三草山に戦ってこれを破った

平氏追討 ~屋島~: 文治元年(1185)二月、源義経は摂津の大物浦だいもつうらから阿波の勝浦に渡り、更に進んで讃岐の屋島に平家を攻めた。

奥州征伐 : 文治五年(1189)頼朝は奥州の藤原氏を討つため、自ら大将軍となって7月19日に鎌倉を出発した。 その先陣を命じられた重忠は軍夫80人のうち、30人には鋤や鍬を持たせた。守る側の藤原泰衡 は陸奥国阿津賀志山に城壁をつくり、堀をほってこれに対した。

京への上洛の先陣: 建久元年(1190)11月、頼朝が初めて上洛する際の大行列の先陣を命ぜられた。重忠27歳であった。

比企氏との戦い : 建仁三年(1203)8月、将軍頼家が重病になった際に北条時政らの計らいで、関西三十八国の地 頭職を弟・千幡(実朝)に、関東二十八国の地頭・総守護職を長男の一幡に譲ることにした。 一幡の外祖父にあたる比企能員(娘・若狭局は頼家室)は関西三十八か国を弟・実朝に分け与えることを不満として返逆を企てたが、かえって時政にだまし討たれ、和田義盛ら大勢の御家人に攻められて 比企氏は滅んだ。 この戦いでは、重忠は比企氏追討の側にまわり、しかもその郎従たちが大力を発揮して大活躍したことが吾妻鏡に書かれている。

二俣川の戦い : 北条時政の謀略により元久二年(1205)6月22日愛甲三郎季隆の矢に射られて最後を遂げてしまった。享年42歳であった。畠山重忠、一族と共に滅亡する。

畠山重忠にまつわるエピソード。

重忠の結婚 重忠ははじめ足立遠元の娘を妻とし小次郎重秀が生まれたが、のち北条時政の娘と結婚した。時政は頼朝の妻政子の父であり、北条義時の父でもある。頼朝の配慮、また重忠の鎌倉幕府における地位を示すものである。

重忠の大力 まず大力であったことは、鵯越の際に馬を背負ったこと、古今著聞集(ここんちょもんじゅう)にある。東国一の相撲取り長居と取り組んで長居の肩の骨をくだいたこと、巴御前との錣引(しころびき)の話、永福寺建立の材木運びで力士数十人の如しといわれたこと、同寺庭池の大石を一人で運び据え、 しかも据え直しに大力を発揮したこと、地元・畠山に重忠が投げたという大石があることなどよく知られている。

重忠の芸術 音曲にすぐれ、文治元年(1186)静御前が鶴岡八幡宮で舞った際に銅拍子を打ったこと、京都 に流行した今様を歌ったこと、名馬・生唼(いけずき)のいななきを遠くから聞き分けたことなど、 単に豪勇の士でなく深く広い教養のあったことでも知られる。

重忠の信仰心 敬神崇仏の念が厚く、西多摩の武蔵御嶽神社に赤糸威の大鎧(国宝)と太刀を奉納したこと、深谷市畠山の満福寺の堂宇再建等をはじめ県内各地に寺院創建の話が残されている。

 

NHK大河ドラマの進行と絡めて重忠公の足跡を見直すと、改めて偉業や偉大さが感じられたのではないでしょうか。

2022年7月 いはら